前提という言葉の重み
今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。
今日は前提について触れたいと思います。
仏教のサイトにこのような内容が記されていました。
「思わじと思うも物を思うなり、思わじとだに思わじやきみ。」
思うまいと思う努力をすることも、それにとらわれて思う事になる。
思うまいとさえ思わないことだ、と無想無念の大切さを説いた言葉である。
精神的なショックを受けた時は、そこから立ち直るには、忘れることが何よりのクスリだと言われる。
だが、早く忘れたいと思えば思うほど、それにとらわれてしまう。
沢庵(たくあん)は、これを「有心(うしん)の心(しん)」という。
「有心の心」から解放されるには、何も思わない心、「無心の心」に立つことである。
ところが無心になろうと思えばその思いにとらわれてしまう。
この心の自縛(じばく)から自由になるには、思うことも、思わないことも止めれば、
ひとりでに心は無心になる、と沢庵は解く。「不動智神妙録」
「最高の人生を生きる」「捨てる哲学」「佐藤康行との対話」で次のような内容がありました。
Q.戦争と真我は対極?
A. 三日月と満月を対極と捉えることもできるけど、まあ、相対的にも捉えるけど、満月しかないわけ。
三日月はないわけ。
私たちの目に入って、脳で捉えている姿、それを認識という。
お月さんが小さく見えようが、近づいて大きく見えようが、月は何も変わっていないわけです。
私たちが捉える認識、脳で捉えた姿にすぎない。
全部そうですよ、目で見て、耳で聞いて、捉えた人がいるだけ。
○○さんはこんな人って。こんな人じゃないんですよ。
この空間、これもこんな空間ではないんです。
自分が、そのように捉えた空間なんです。
こういう嫌いな人って。そういう人はいないんです。
そのように捉えている自分がいて、その人ではないわけ。
その人じゃないから、その人がいなくなっても他の人が現れたりする。
それは自分の認識だから。全部、認識です。
真実・真理・実相以外は、全部、認識だと思ったらいい。
それを対極と言ったら対極だけど、ないんだから、対極でもないんです。
この、脳の中の物語だから。最初から、答えを神ていく。
真我だけが答え。あとは全部、認識だから。
Q.三日月が移り変わる姿を見ているのも、認識ですよね。
満月だって捉えていることも認識じゃないですか?
A. 違う。満月として捉えるんじゃないんです。
ここが、言葉が大事なんです。
捉えることはできないんです、満月は。
だって、三日月を見て、満月と捉えられないでしょ。
ここで、大事なのは、前提という言葉。
真ん丸という前提。
前提っていうのは、まだ捉えていない。
Q.あっ。
A. 捉えていない。
でも、前提にすると、そうだという前提。
そっちから見て、机下のごみ箱は見えないでしょ。
でも、ごみ箱があるという前提で話をすることはできるじゃないですか。
あるんだから。
でも、ここから、ごみ箱見ようと思っても見えないじゃないですか。
絶対見えないじゃないですか。
でも、ごみ箱はあるんです。
だから、ごみ箱があるという前提。
確信なんて、しなくていいんです。確信も認識なんです。
女性でしょ。
私はまだ証拠を見ていないんです。
でも、女性という前提で扱っているんです。でしょ。
認識する必要ないんです。女性だから。
確かめなくてもいいんです。女性だから。
少しずつ少しずつ分かってきた「前提の捉え方」
よし、」この調子!
よし、」この調子!