精神世界の旅が終わり、真我で出発します

波動・言葉・心

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。

今日も佐藤康行著「魂の開発講座」より抜粋してお伝えします。

言葉には三種類あると言われている。

一つ目は頭に訴える言葉、二つ目は心に訴える言葉、三つ目はすべて(魂)に訴える言葉である。

この三つ目を波動という。

人間が生まれ変わるときに波動が全開するのである。

波動は何かと言うと愛なのである。

波動の言葉とは愛の言葉なのである。

その言葉を振りかけられるだけで人間は生まれ変わるのである。

人間は言葉でできている。

人間は心でできている。

心が変われば言葉も変わるのである。

良い言葉が響き渡れば良い細胞に変わるのである。

魂が蘇ってくるのである。

一刻、一刻を大切にしなければいけないのである。

人間の問題点は言葉なのである。

障害になるものは恨み、辛みである。

その反対は喜びと感謝と愛である。

それが魂とカチーンと合うのである。

魂というのは神の心である。

そして、人間の心と神の心を蘇らせるのである。

それが愛なのである。

解決策がないと思っていたことには解決策があるのである。

例えば病気でも病気になってしまったならば、治す力が同じようにあるのである。

我々の心は少し間違うと全然反対の方向に行ってしまう。

心は自分のことを先に考えると自分のためにならないのである。

これは面白いのであるが、人のことを先に考えれば自分のためになるのである。

ばらばらに人間は立っているから自分のことをやれば自分のためになるのではないかと思う。

しかし、そこが人間の浅知恵なのである。

人のために一生懸命やるから結果的に自分のためになるのである。

魂は一つなのである。

宇宙の心は一つなのである。

皆繋がっているのである。

自分の中の魂に触れれば誰も憎い人はいないのである。

今まで悪い人だと思っていた人も本当はそうではなかった、

皆いい人なのだと発見することができるのである。

その人のことを恨んでいたと思い込むことが

結果的にはその人を好きになるきっかけとなるのである。

であるから、これも一つの愛の現れなのである。


「私の満月物語」

「人間は言葉でできている」

「人間は心でできている」

この二つの文章が心に留まる。

昨日、生活リズムが崩れ、体調を崩した。

何度も何度も繰り返す同じ失敗。

夜中に起きて、自分で期するものがあった。

二度と繰り返さないために強い決意を言葉に記す。

今までも何度も繰り返してきたことだが

今回は今までとは違う。

自分の目標を明記し、繰り返し読む。

学長の二つの文章が心の奥に響き渡る。

自力と他力

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。

今日は佐藤康行著「魂の開発講座」より自力と他力についての後編をお伝えします。

「私自身、ステーキ屋のチェーンをやりながら、

魂の開発講座や思い方教室などをやっているのは、

この事が自分がやらざるを得ない自分の天命であると考えているからである。

難しい話を分かりやすく伝えることが私の使命であるということを痛感しているからである。

そして、他力(法則)をどのように理解していくか、このことを難しがってはいけないと思うのである。

難しがってしまったら生活化することはできないからである。

理解するのでさえ難しいのにそれを生活化することは非常に難しいことだからである。

自力というのは我々の意志の力でそちらの方に向けていくということである。

そして、向けていって自分の意志でやっていくということである。

もっと分かりやすく言うならば、我々人間に100の力があるとしても

10%、15%の力しか出さず、残りの90%、85%は遊ばして、

あの世に行ってしまうとよく言われるが、残りの90%を合わして

100の力というのは既に与えられているものなのである。

自分でつくったものではないのである。

だから、これは他力なのである。

宇宙の力、神の力なのである。

我々は自分の意志の自力の力では10%ぐらいしか出していないということなのである。

したがって、15%、20%、25%出そうとする意志の力は

自力でやっていかなければならないのである。

ここが大事な点である。

本当はこちらのほうに心を向けて、開発していくことが必要なのである。

そして、既に自分にはそれぐらいの力が備わっているということを

自覚することが大事であり、それを自力でするのである。

従って、他力は無限の力を自覚する、自力は意識して、それを出そうとする力のことを言う。

他力(宇宙の法則、神の力)は信じる、自覚するしかないのである。

即ち、そういう力があるのだということを自覚して、そして、

そちらの方向に向かって力を出していく、そのことが大事なのである。」


「私の満月物語」

学長のセミナーでいつも話されている、満月と三日月のお話。

三日月に見えてもそれは人間の認識に過ぎない。

真理真実は満月。

しかも満月さえ、人間の認識でとらえたものであり、実際は何万倍何百万倍あるかわからない。

学長が力説して下さる意味が、他力と自力の内容を読んで心に落ちてきた。

心は認めないと現れない。

とてつもない意識次元でとらえてある真理、宇宙の法則。

この真理の深さをさを自分でどのくらいの深さでとらえられるか。

黄金の雨をどのくらいの大きさで受け取ることができるかは

あなた次第で決まるのですよ。

学長の言葉の重みが少しずつ分かってきた。

 

 

自力と他力

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。

今日は佐藤康行著「魂の開発講座」より抜粋してお伝えします。

私は仏教を勉強しているときに自力と他力という言葉をよく目にしていました。

学長の説明で、何が自力で何が他力なのか心に落とし込むことができました。

その部分に関するところを抜粋します。

「そして、自分の生活の中で他力と自力ということを理解していくためにはまず、

この事を把握することが最も重要なことである。

先ほど、他力とは宇宙の法則であるという捉え方をしたが、

では自力とは何なのかと考えてみると、本当は辿っていくと

他力と自力は同じところに辿り着くのである。

同じとはどういうことかと言うと同じ方向だということである。

“オギャア”と、我々は一つの種から生まれた。

バラにはバラの種がある。

そうしたらこのバラはどう咲くかということは決まっている。

牡丹は牡丹でどう咲くかということは種の時点で決まっているのである。

バラは牡丹にも桜にもならない。

しかし、人間だけは妄想するから、ついついボタンになろうとか

桜になろうとか思ってしまう場合があるのである。

であるから人間が一番病気をしやすいのはそういうことからなのである。

悩み、嫉妬し、いろいろなことで一番苦しむから、心のバランスが崩れ、

肉体にまで及んでいくのである。

我々はこれから生きていくためにはそういうことも無視しないで勉強していかなければならないと思う。

また、尚且そういう時代に生きているのだということを私は現実に実感しているのである。

即ち、法則以外のことでやっていくと消えていかざるを得ないからである。

先ほど言った種は、天命により咲くようになっているのである。

これはご先祖様からの考え方、両親の思いが重なって、パッと生まれてきたものなのである。

であるから、それを別な色に咲かせるのではなく、

自分の持っているそのものを最高に咲かせようとすることが大事なのである。

その人の個性、考え方、生き方が哲学となり、仕事や家庭なりにおいて、

こういう生き方をするのだという段階を逆さまから考えていく必要があるのである。

我々はどうしても今の自分の気持ちから、目標を立てようとしてしまう。

そうではなくて種を理解して、そして、この種が最高に咲いたときは

どのように咲くのだろうと原点に戻って考えていく必要があるのである。

そうすると明確に、より無理なく理解でき、疲れないのである。」


「私の満月物語」

この本で自力と他力を読んだとき、頭の中で学長の今までのお話が一つになってきた。

満月と三日月でいつも言われていたことの意味が自分の中で明確になった。

何をやればいいかが分かることは大きな力になる。

次のブログで、自力と他力の後編をお伝えするので

そこで私が感じたことを書いてみたいと思います。

インドの聖者を研究してきた人のブログ

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。

今日は以前にもお伝えした学長書籍「神様の鏡」を図書館で見つけて

読まれた方のブログを再度掲載させて頂きます。

以前読んだときとは全く違う感じに捉えています。

「ブログ感想」

いつもありがとうございます。

実感として感じるのが、世の中には助けが必要な人など誰もいないということです。

インドの沈黙の聖者と呼ばれていたラマナ・マハリシが、

ある記者にインタビューされた記事が載っていました。

「あなたは悟った人として、この世の中で今もある戦争や飢餓で苦しんでいる人や、

多くの子どもたちに対して何かしてあげたいとは思わないのですか」と質問したところ

ラマナ・マハリシは幸せそうなほほえみを浮かべて

「この世の中は全て完璧なのにどうして変える必要があるのか」と答えたそうです。

ラマナ・マハリシの目にはすべてが完璧な世界だったのでしょう。

私にはその意味が分かりませんでした。

ですが最近になって、完璧なこととして

相手や出来事を見ることこそが大切なのだと思うようになりました。

助けてあげなくてはいけない、不完全な存在などこの世には存在していない。

これは佐藤康行さんの著書「神様の鏡」という本を読んで、なるほどとすごく納得できたのです。

第一章にあった「宇宙の完璧」という一説が心に響いてきました。

どんな現象がやってきてもそのままで完全であることに気づく。

目の前に起こってくる出来事に抵抗するのではなく、完璧をただ受け入れるだけでいい。

ラマナ・マハリシの意識状態がそこに完璧に証明されていました。

ごめんなさい、私の今の理解力意識レベルではうまく説明できません。

ご興味がある方は読んでみて下さい。

ちゃんと理解しているかも不明なのにここで紹介したのは直感でこれは真実だと感じたからです。

最初に自分が不完全だと認識した状態で出来事や人を見ると、

結果も不完全なものが現れるということです。

すべての存在がそのまま完璧だと受け入れること。

あなたの存在がそのままで完璧だと受け入れること。

ここから始まれば結果が、自ずと完璧なものになる。

これは自分にも他人にも完璧を求めるのではなく、すでにすべての人が完璧であると気づくこと。

これはそうかもしれない。

直感で本当のことだと思いました。

自分の認識が変わると過去も現在も未来も変わる。

なぜならば、全ては私たちの認識、五感が作り出しているから。

ここで佐藤さんが薦めて下さっている方法が。

何か問題が起こったときそのことに対して「完璧完璧完璧」と繰り返し唱えることです。

完璧であるという宇宙意識からスタートすることによって、

自分の次元が上がり、今まで見えなかった気づきが得られるというのです。

その結果、自然に外に現れている現象が完璧というのです。

これには目から鱗でした。

人に対しても完璧であること。

こちらが認識することによって、その人は必ず完璧な姿を現すというのです。

どんな相手も最初にまず変える必要のない完璧な人だと捉えることです。

これはとても大事なことだと思いました。

例えば、自分を完璧な存在として接してくれる相手には安心して心を開きますよね。

ですが、不完全で変容が必要な未熟な人として扱う相手には嫌な気持ちがします。

離れようとします。

これは真理だと思います。

相手や自分を不完全(未熟)だとみると不完全さが現れてくるのです。

すごく腑に落ちました。

若いころ、苦しんでいる私を何とか助けてあげようと、

教え、導こうとしてくれた善意ある人たちに感謝でいっぱいですが、

その人たちのもとでは私はずっと不完全な姿そのものでした。

助けてあげたいという意識では「君は助けが必要な未熟な存在だ」

と暗黙に言い続けているようなものです。

「君はこのままで完全なんだよ」という完璧な眼差しで見てくれる人がいたら、

完璧な存在として接してくれたなら、どんなに救われたことでしょう。

そういえば私は昔、様々な人から、不完全な子として見られていたことを思い出しました。

不完全だと思うから心配になるのです。

教え込まなくてはと躍起になるのです。

助けてあげなくてはと思うのです。

「あなたは変わらないとだめよ」というメッセージをずっと受け続けているのです。

そして私自身もまたすべての物事を不完全として見ていたのです。

佐藤さんが出会った人たちがどんどん劇的に変容していくのは、

佐藤さん自身がすでに相手を完璧な人として向き合っているからなんだとつくづく思った次第です。

これはすごくすごく大切なことだと思ったのです。

人生とは何か

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。

今日は感動した記事をご紹介します。

「あの言葉を支えに」

横浜に出てきて20年目。

様々な思い出がよみがえる。

自分で決断したとはいえ、2歳の娘を抱えて母子家庭となり、

16年のブランクを経ての看護師復職は並大抵のことではなかった。

でも、普通の男性よりも勝っていると思う度胸と根性、

そして偶然知り合った年配の女性3人に、就職・住居・育児、

それぞれの面で助けられて何とかやってこられた。

そして苦難の中、生きる原動力となったのは何といっても娘の言葉。

小学1年生の終業式の日、学校から持ち帰った物の中に

「心のノート」という書き込み式の道徳教材があり、

「今までで一番うれしかったこと」の項目に

「ママがずっとしごとしてきたこと」と書いてあった。

見た途端涙があふれ、ノートを抱きしめ号泣!

それまでの苦労が吹っ飛ぶほど心に響いた言葉だった。

7歳の女の子だったら、もっと子どもらしい発想をしそうなものだけれど‥‥

あれから14年が経ち、再婚して9年が過ぎた今、娘は同一人物とは思えないほど変わり、

あの頃のけなげさとかわいさは無い。

生意気盛りの女子大生で母親としては情けない限りだが、

それでもあの時の言葉が今も、私の心の支えとなっている。

横浜市、看護師、58歳

「私の満月物語」

佐藤康行著「魂の開発講座」に学長のこのような言葉がある。

これは私が作った格言であるが

「人生とは自分の心の中にある素晴らしさを発見する作業である」と思う。

また次のように書いてある。

「大きな視野から物を見ることが大事なのである。

一番大きな視野が神様であり、宇宙そのものである。

つまり極限なのである。

範囲などないのである。

自分の中に無限の力、愛、知恵があり、私は素晴らしいのだということを自覚することである。

自分が他人の評価をし、人の欠点が見えるということは自分にも同じ欠点があるからなのである。

だから自分が素晴らしい人間であれば、人の素晴らしいところしか見えないのである。

今日、私の家に宿泊しているドイツの留学生と話す機会があった。

相手の欠点が見えてきてしょうがない心に気づき、はっとして

美点発見に切り替える。

その瞬間に心が穏やかになる自分を発見できた。

 

患者から医者の立場へ

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。

今日は「佐藤康行神技カウンセリングの極意」より抜粋してお伝えします。

佐藤先生の講話   ==================

【講話続き】
でも、皆さんが体感しようがしまいが、最初からそうだったんですよ。
でも、最初からそうなのに、その素晴らしい自分を出してないで生きてただけです。
皆さんの心の奥の中にユートピアがあったんです。
なのに、ゴミの自分で生きてたり、理屈だけで生きてたりする場合がある。
あなたの中に無条件の愛があったわけです。
だから、あなたの周りにいる人もみんなそうですよ。
周りの人で、どうも理解できない、なんか変だ、文句言ってる、いつも愚痴を言ってる。
でも、そういう人こそ、本当は一番求めてるんです。
苦しんでる人ほど。
だから、あなたを必要としてるんです。
そう思ってそっから出発すると、全然変わってきますよ。
だから、受け止め方なんです。
もう、今日からあなたは、どちらかと言うと、
患者さんというより、お医者さん側に変わるみたいなものです。
肉体の病気だったら、「ここが具合悪いんだ」と言ったら、
それを悪く取ったりしないでしょう?
「ああ、そこが具合悪いんだ」って受け止めて、
「どの辺? どの辺?」と何とか分かってあげようとするでしょう?
もし、あなたが医者だったら。
でも、心の部分は、みんなそういうふうには取らないんです。
「あの人は性格が悪い」とか、そういう受け止め方をするんです。
でも、ほとんどは最初の子供の頃からの親の育てられ方とか、
いろんな部分でひねくれているように見えるだけです。
だから、肉体の病気だったら悪く取らないんだけど、心の病気だったら悪く取っちゃうんです。
でも真我で見たら、単なるその一部分が出てるだけ。
そして、受け止めることができますから。
だから、あなたに余裕ができます。
そういう受け止め方したら、あなたに余裕ができます。
たとえあなたのことを非難したとしても、あなたを非難してるんじゃないんだと。
自分の心にそういう葛藤があるから言ってるんだ」
というふうに受け止めてやったら、あまりあなたは動揺しなくなります。
あなたが医者で、病人が具合悪そうにして、自分を責めてるように見えないじゃない。
こんな苦しい顔して、しかめっ面してきたら、
「私のこと、嫌いなんだ」なんて受け止める医者なんかいないでしょう?
本当は心の部分はみんなそんなもんだと思ったほうがいいです。
なのに、自分のことを責められたりしてるとか思っちゃう。
ほとんどがそうじゃないですよ。
みんな自分の性格の問題なんです、その人の。
お分かりでしょうか。
そのようにしてUターンをします。
今まで「自分、自分、自分」というのを
「あなた、あなた、あなた」に流れを変えていくわけです。
「分かってほしい、分かってほしい、分かってほしい」
「分かってあげよう、分かってあげよう、分かってあげよう」という方向に流れを変えます。
今日は短い時間でギュッと凝縮して、何回も何回も、その流れを変える訓練をします。
何回も流れを変える訓練をします。

「私の満月物語」

このお話を読んだとき、思わず「う~ん」と唸ってしまった。
こんな受けとめ方をいったい誰ができるだろう。
これは凄い。
真我の実践にとてつもない勇気を頂けた。

 

最も安全で楽な道

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。

今日も佐藤康行著「神のメッセージ③」より抜粋してお伝えします。

「最も安全で楽な道」

強い人と言うと、競争に勝つ、力が強い、弁が立つなど、

相手を負かすイメージを持つが実はそうではない。

人とぶつかって、力で勝つ方法では、敵を作りやすい。

負けないように、いつも自分を権力や言葉や金などで武装していなければならないだろう。

これは自分自身が一番つらい、いばらの道である。

そうではない最も良い方法は、相手を受け入れることである。

受け入れるということは、相手の言う通りのことをやるということではない。

相手の良いところを見つけて、心から認めて讃えるのである。

自分を認めてくれた時に、人は心の扉が開く。

そうしたら、相手は、自然と自分から行動するようになるのだ。

老若男女問わず、人はそのようにできている。

一切のトラブルがなく、力もいらない、最も安全で楽な道なのである。


「私の満月物語」

学長のお話の中で次のような内容があった。

合気道をされている方で、その方を知らない人はいないほど傑出した方がおられ、

その合気道の達人の方が弟子から「最も強い技は何ですか?」と聞かれた時に

「それは自分を殺しに来た人間と友達になることである」

道を究めるとそうなっていく。

まさに究極は真我です。

私たちはその究極から出発していることを学長は述べておられます。

満月の法則の実践。

やっと電話が鳴って、瞬間心が騒いでも、「吉報である」から

スタートできるようになりつつあります。

何があっても満月。

とても緊張する場面でも、「真我の実践」を唱えながら

認識に飲みこまれない。

意識を真我に向け続ける。