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欲望の時代の終わり・本当の自分、真我の時代

精神世界の旅が終わり、真我で出発します

過去と未来が同時に変わる

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。
今日は佐藤康行著「未来の幸せと富を先取りする」より抜粋します
―過去のトラウマー
完全完璧な命を先取って、過去のトラウマを解消
完全完璧な命を先取ることで、大きく人生が変わった人を紹介します。
40代の男性です。
彼は、父親との関係から、大きなトラウマを抱えていました。
幼いころから、父親から暴力を振るわれていました。
父親のことが、嫌いで嫌いでたまりませんでした。
母親もギャンブル依存で数百万円の借金をつくり、妹は原因不明の体調不良。
非常に厳しい家庭環境の中で育った人です。
父親との関係の悪さは、大人になっても暗い影として、大いに彼を苦しめました。
人が信じられないし、理解もされないし、心が閉じてしまって人間関係はぼろぼろです。
仕事では目上の人やお客様とうまくいかず、会社にいられなくなってしまって、
何度も転職を繰り返しました。
その結果、うつにもなりました。
3か月や半年など、働くにも働けない時期が何度もやってきました。
そんな状況の中で、私の研修を受けたのです。
彼が受講したのは、完璧な命を先取ろうという研修です。
完全完璧な視点から、自分を見つめ直してみます。
自分に対しても、周りの人に対しても、
今まで思ってもみなかったことを感じることができます。
私たちは、もともと完全完璧な存在です。
いつかそのような存在になるのではなく、本当は最初から完全完璧なのです。
今から努力して、完璧で立派な存在になろうとしたら、
いつになるのかわかりません。
いえ、どんなに遠い未来でも無理なのです。
そこまで待っていないで、遠い先ではなく、今、先取ってしまおうというわけです。
彼の心の中に、大きな変化が起こってきました。
ちっぽけな人間という枠で見ていると、父親の暴力は憎悪の対象でしかありません。
死んでも解消できないことです。
思い出したくもない。
しかし、完全完璧という視点で見るとどうでしょう。
また、違ったことがわかってくるのです。
この世は、完全完璧です。
ですから、愛にあふれています。
愛しかありません。
災害や犯罪、戦争など、地球上では愛とは正反対だと思えるようなことが
たくさん起こっています。
なぜ、そんなことが起こるのか。
それは、私たちが愛を学ぶためなのです。
愛を学んで、もっと大きな愛で地球を満たすために、
一時的に、悲しい出来事が起こったりするのです。
そういう目で見た時、彼の父親に対する見方が完全に変わりました。
それまで、彼の中の父親というと、鬼のような形相で
手を振り上げる姿が頭に浮かびました。
その姿が浮かぶと、激しい嫌悪感と悲しみで、心の中がいっぱいになりました。
しかし、視点を変えることで見えてきたのは、全く違う父親の姿でした。
自分が本当に幼いころ、ベビーパウダーをつけてくれて、
ベビー服を着せてくれている父親でした。
笑いながら話しかけてくれています。
彼は、まるで四六時中、父親が自分に暴力をふるっていたかのように思っていました。
でも、そんなことはなかった事実に気がつくのです。
決して、暴力をふるうばかりでなく、自分を愛してくれて、
大切にしてくれた父親もあったことを思い出したのです。
それだけではありません。
彼は、父が大きな愛で暴力をふるってくれたからこそ、
完全完璧な人生に出会えたのだと理解しました。
父のおかげで、彼は人の痛みが分かる人間、そして、
そうなれたことがどれほど重要か、わかる人間になれたのです。
彼は、一瞬のうちに変わりました。
あの暴力ををふるった、憎くてたまらなかった父親に対して、
涙を流しながら、「お父さん、ありがとう、ありがとう」と言い始めました。
本当の彼が目覚めたのです。
完全完璧な命を先取りできました。
そうなると、彼の人生は大きく変わっていきます。
父親との間に会った事実は変わりませんが、
そのせいでうまく行かなかったと思っていた今までの自分が姿を消して、
父親との関係があまりに悪かったおかげで、
こんな素敵な人生になったという生き方ができるようになりました。
今、彼は、人間関係のカウンセリングをしています。
親との関係が悪くて悩んでいますというような人が来ると、
彼は、内に秘めた命の炎が燃え上がるそうです。
そういう相談には、彼ほど適した人はいないし、
体験者だけに説得力も違います。
そういう人たちを新しい人生に導くのは、
彼にとっては、得意中の得意となりました。
暗い顔をして訪ねてきた方が、しばらく彼と話をすると、
元気を取り戻し、ニコニコして帰ります。
彼も、人の役に立てたことに、心からの喜びと感謝をもって、
いつも幸せな思いで仕事をしています。
完全完璧な命を先取って、父親への感謝も先取って、
何をやってもうまくいかなかった人生が180度変わって、
今や、充実、満足、幸福の日々となっているのです。
 
 

諦めない心

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。
昨年度50名近い方々に学長の真我の情報を送っていました。
読み返してみて、心に響くものがありましたのでご紹介します。
長いものですが、お役に立てると幸いです。
 
昨日は、天才と凡才について学長の言葉を紹介しました。
 
今日は、自分の使命、天命は必ず実現できることについて
 
実際にあったお話をを紹介します。
 
これは、真我の実践をしておられる方がブログに載せられていたものです。
 
私はこのお話に触れた時に、思いの実現は、本人次第であることを
 
確信しました。
 
私は、今、プロカウンセラーを目指していますが、このお話からもの凄い力と勇気をもらうことができました。
 
このメッセージを読まれている方々は様々なお仕事にかかわられていると思いますが
 
このお話から、是非ご自分の人生に目標を持ち、実現する力にして頂けたらと思っています。
 
教師をされていたり、夢を与えることに関係のあるお仕事にかかわっておられる方に
 
子供たちに紹介したり、記事にしたり、相手の心に残る形でお役立ていただけると嬉しく思っています。
 
お話を紹介します。
 
 
 
 
 
『とある野球少年のお話』
少年には夢があった。
メジャーリーガーになるという夢が。
彼は黙々と練習を続ける。
夢をその手に掴むために・・・
夢のきっかけは、6歳の時に父親と行ったヤンキースタジアムでの出来事だった。
1-0でヤンキースが負けていた。
しかし、9回裏ランナー1塁、一打逆転のチャンス。
少年は興奮しながら父親に向かって、『見ていて!!次のバッターがホームランを打つよ。』
微笑む父親。そして、運命の女神も微笑んだのだ。
逆転サヨナラホームラン!!
少年は夢見心地でつぶやいた。
『ねぇ、パパ。僕もメジャーリーガーになれるかな。
ヤンキースタジアムに立てるかな。』
すると、パパは微笑みながら、
それでも力強く少年の頭をなでながら言った。
『ああ、なれるさ。最後まで諦めなければな。』
それから少年の練習の日々が始まる。
少年には障がいがあった。
初め、野球の仲間に入れてもらえなかったが、
来る日も来る日も、黙々と練習を続けた。
そんなある日、人数が足りないため、少年が試合に参加することになった。
そして、大活躍。
少年は野球チームから引っ張りだこになった。
その障がいをものともせずに。
中学を卒業した少年は、 プロを目指し、野球学校に入校。
少年は誰よりも真面目だった。
誰よりも早く練習場に行き、 誰よりも遅く練習場を出た。
守備も打撃も誰よりもうまい少年。
しかし・・・どこからも声はかからない。
アメリカはメジャーリーグを頂点とし、
AAA、AA、A、B、C、Dリーグとピラミッド型を構成している。
その一番下のDリーグにすら声のかからない少年。
腐らずにもくもくと練習する少年の姿に感動した学校の先生は、
Dリーグの監督を集め少年を見てもらう。
結果は・・・全敗だった。
どこからも声がかからなかったのだ。
卒業した少年はアマチュア選手として活躍。
しかし、夢を諦めきれず、
24歳の時ニューヨークに行きDリーグの入団テストを受けにいった。
しかしオーナーは全く相手してくれない。
そこで、彼は十ドル紙幣を取り出し、オーナーに渡してこう告げる。
「これはぼくの全財産ですがあなたに預けます。
僕に入団テストを受けさせて下さい」
「もし、ぼくがチームの役に立てそうになかったら、返さなくて結構です。」
オーナーは少年の自信と必死な態度に負けて、テストだけは受けさせることにした。
とりあえず、10ドルもうけたなと。
しかし、オーナーの予想は良い意味ではずれた。
彼のプレーは群を抜いていた。
そして、彼は合格し、1942年晴れてマイナーリーグのプロになることができた。
その後の彼の活躍をまとめておく。
1942年 打率 3割8分1厘 首位打者のタイトル獲得
1943年2Aリーグに昇格
1944年には3割3分3厘の打率と、
ホームラン5本、ホームスチール10回を含む68盗塁
輝かしい成績をあげ、MVPを獲得。
そして、1945年。
メジャーリーグのブラウンズと契約。
打席に立つ少年。
夢にまで見たメジャーリーグの打席。
第一打席。 三振。 第二打席。 三振。
第三打席。 バットが空を切り。三球三振という成績であった。
しかし、観客はピートが三振して打席を去っても、
席から立って拍手を止めなかった。
ずっと続くかと思われるくらい拍手が止まなかった。
三球三振なのにである。
なぜだろうか?それは・・・
そう、彼には右腕がなかったのだ。
片腕のメジャーリーガー、ピート・グレイ。
彼は6歳の時、
列車から転落するという事故で利き腕の右腕を失う。
野球選手になるのが夢だったピート。
絶望しかけたピートを励ますため、
ヤンキースタジアムに連れて行った父親
そして、父親の言葉を信じぬいたピート。
ピートは夢を諦めなかった。
メジャーリーガーになるという夢を諦めなかったのだ。
そして、彼はその片腕で夢を掴んだのである。
【最後にピートの言葉を書き記す。】
私の子供の頃の夢は、ヤンキースタジアムで野球をすることでした。
そして、それを叶えられたことが、
自分の人生にとって、最も素晴らしい出来事だったと思います。
自分のような、体に障がいを持つ者にとって、練習こそが全てでした。
でも、たとえ練習しても自分にやってくるチャンスはわずかなものでした。
ある時こう言われたことがあります。
「両方の腕があっても、野球をするのが難しいのに、
片腕で野球なんかできるわけがないだろう」
それでも諦めず、自分は常に夢に向かって練習したのです。
最後に好きな言葉を送ります。
A winner never quits.
勝利者は常に諦めない』
この片腕のメジャーリーガーのお話は、
私(岡田社長)がへこたれそうになった時、
諦めそうになった時にあるテレビ番組で知りました。
このメジャーリーガーのストーリーを知った時。
(五体満足な自分が何を甘えた事を言っているのだ・・・)
激しい感動にむせび泣きながら、同時に自分への激しい憤りも覚えました。
このストーリーを知ってから、再度心を入れ直し、
火の玉の如く仕事に取り組みました。
そんな思い出のあるエピソードです。
あの時の私同様、○○様に勇気と元気をお届けできたとしたら望外の喜びです。
何度読んでも感動する実話。
今も自分自身が聞いています。
 

諦めない

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。
今日は、大相撲夏場所で、けがを押して出場し続けている稀勢の里関について触れたいと思います。
ある居酒屋で、急に室内がざわめき始めました。
テレビを見ると、大相撲の中継があっていて、稀勢の里関が土俵に上がっていました。
けがをおして出続けている姿を日本のファンは知っています。
我慢して我慢して最後に相手を押し出すと室内や地下の会場から大歓声が上がります。
たった一人の人間がここまで人々の心をつかみ、見ている人たちに勇気と希望と諦めない情熱
を与えることができる。
ただただ凄い力士だと言葉を失いました。
振り返ってみると、稀勢の里関は、大関時代、白鳳の記録を破るなどその実力は一級品でありながら
いつも大事な所で負けてしまう状態がずっと続き、ファンからも忘れられ、見放されている時期がありました。
しかし、同僚の琴奨菊関の優勝から何かを感じ取り、今までの自分の殻を破りました。
それまでのファンからも見放される程の辛い時期も全てを自分の糧にしていたのです。
「けががひどくならなければいいが」
見ているファンの方すべての想いです。
彼には、横綱として負けるのが恥だとか、立場が悪くなるとかそういった個人的な思いは
全く見られません。
そこにあるのは、ただただ横綱としての責務を果たしたい。
体が動く限り出続けて、見て下さるファンの方々に自分ができる精いっぱいの姿を見せたい。
おそらく彼の心はそういう気持ちだけが支えていると感じます。
彼から大きな勇気を学びました
諦めない凄さを学びました。
私も決して諦めない。
諦めなければ必ずできる!
カウンセラーをやり切って、出会うすべての方々に自分の素晴らしさを分かってもらう。
真我で生きることの喜びを知って頂く。
社会を光に変える。
世界を光に変える。

全ては満月

きょうもメッセージをお読み頂きありがとうございます。
今日も新聞記事より抜粋してお伝えします。
「母のふくれ頭」
「母ちゃん、今日は、ふくれ頭にしてきてね」。
授業参観の朝には、必ず母に念をおした。
逆毛を立てて結い上げたその髪型を私はふくれ頭と呼んでいた。
母は41歳で末っ子の私を産んだ。
小学校で初めての授業参観日。
若くてきれいな母親たちの中、野良仕事で肌が焼け、
老け込んだ私の母は干し芋の蒸しまんじゅうのようだった。
私はなんだか急に恥ずかしくなり、悲しくなった。
以来私は、母に見栄えがするふくれ頭にするようせがんだ。
ふくれ頭が少しだけ素敵に見せたのかも知れない。
私は41歳位になったころから、母と自分を重ね合わせるようになった。
この年で私を産んでくれたのかと、感謝の気持ちでいっぱいになった。
私も56歳になり、母がその年のときは中学2年生。
思春期に母に当たり散らしていた自分が、いまさらながら恨めしく思える。
終戦後、母は2人の子どもの手を引き、身重の身体で旧満州から引き上げてきた。
貧乏のどん底の中、日雇い労働をしながら、9人の子どもを産み育てた。
実家にある遺影の母は、美人でもなくふくれ頭もしていない。
けれども私にとってクラスで一番、すてきな母だったと胸を張る。

「私の満月物語」

今日の夕食は、チーズホンジュをつくった。
前回、前々回この料理を失敗して、つれあいと気まずくなり、
もう二度とつくらないと決めていた。
全ては満月。
ようやく満月の法則が心に落ちてきている。
今日は何の抵抗もなく気がついたらこの料理の準備をしていた。
全ては満月。
全ては完全完璧。
何が起きても何も抵抗する必要はない。
不思議と心が落ち着いている。
これが完全に自分の中に落とし込めたら、とんでもない世界に行くのだろうな。
 

満月で観る

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。
今日も新聞記事より抜粋してお伝えします。
語るー人生の贈りものー
幻覚を描きとめる だから早い
前衛芸術家   草間彌生

《草間さんは1929年3月22日、長野県松本市で種苗業を営む裕福な旧家に末娘として生まれた。
しかし、父親と母親の人間関係は必ずしもしっくり行っていなかったという》

父は家をあけがちで、私が10歳ぐらいのときには、よく行き先を探しに出かけました。
冬の雪が降っているときでも行きました。
体はどんどん冷えるのに、なかなか見つからない。
母の機嫌も悪くなる。
ほんと辛い時代で。
小さいころから絵を描きたくて、絵描きになりたかった。
でも私をいい家に嫁がせたい母は絵を描くことに反対で、
描いた絵をめちゃめちゃにしたり、絵の具皿をひっくり返したり。
畳の上に絵の具が飛び散りました。
それを片付けないとまた怒るし。
食事の時間になると、あなたは家の手伝いもしないし、
自分の事しか考えていないから食べさせないと言われることもしょっちゅうあった。
母に何とかして可愛がられようとして、レンゲ畑に行って花束をつくり、
お母さんにあげても、絵ばかり描いていてと、その花束を蹴飛ばしちゃったんです。
蔵に閉じ込められたこともあります。
《母親とみられる女性を描いた10歳ごろの絵には、顔にも水玉が浮かんでいる》
あれは幻覚なの。
そういう生活の中ですっかり心がだめになってしまって、
あのころ、一人で夜道を歩いていると、急に空がパッと明るくなって、
山の向こうの方に幻覚が現れたり、花が語りかけてきたり。
幻覚、幻聴が本当に悪くなって。
今もいっぱい出てくる。
幻覚なのか、視覚の中に現れてくる不思議な物体がある。
それを描きとめる。
だから、描くのが早いの。
この年になるまで独りで絵ばかり描き続けて、朝から晩までめちゃめちゃ描いて、
結局、何とかして自分の悲惨だった子供時代を取り返したい、
人間らしい姿になって、前衛作家として世の中のためになりたい。
そういう気持ちでした。

強い想い

今日もメッセージをお読み頂きありがとうございます。
今日も感動した記事を抜粋してお伝えします。
「ずっと手をつなごう」
夫と歩くときは、必ず手をつなぐ。
61歳と48歳で結婚したのは8年前。
結婚が遅かった分、一緒にいる時間を大切にしてきた。
けんかをして私が1人でさっさと歩きだしても、
「仲ようせなあかんねんで」といつも夫が強引に手をつないできた。
けんかが長引くことはなかった。
でも4月半ば、夫に気になる症状があって病院に向かう際
つまらないことで言い争い、お互いに意地を張った。
手をつなぐどころか、病院までの道はずっと離れたままだった。
夫は検査で頭の中の出血が分かった。
即日手術を受け、翌日にも再手術を受けた。
どうして手をつないで来なかったんだろう。
6時間に及ぶ2度目の手術をそばの別室で待ちながら、
もう二度と手をつないで歩くことが出来なかったらと思うと、涙が止まらなかった。
集中治療室のベッドで意識が戻った彼は、酸素を吸入したまま、私の手をぎゅっと握った。
その目は「やっぱり仲ようせなあかんねんで」と言っていた。
一番大切な人と一緒にいられることが、当たり前になっていたのかもしれない。
何があっても、お互いに手をつないで歩いて行こうと思う。
神戸市 女性 56歳

「私の満月物語」
昨日、チーム達人「満月笑顔福岡の会」のスタートを切った。
会の初めに、上の記事を読んで、心に感じる部分を味わってもらった。
このような人間愛に感動する心、湧きあがってくる心が真我であることを実感した。
今回の会では、この一年間、私が学長の話を聞いてきて
やっと自分の中に落ちてきた内容を思い切り伝えたいという強い想いがあった。
とにかく毎日全力で取り組んできた。
私の想いは100%出すことができ、私的には大成功だった。
聞いて下さった方々も私の強い想いを受け止めて下さった。
一番の収穫は、発信者として取り組んだことが全て私の力になっていることだった。
学長が発信者になりなさいと言われている訳が心の底から理解できた。
クリニックでのカウンセラー、満月笑顔の会の発展、この二本を
必ずやり遂げ、光の輪を広げていく。

命は一つ

今日もメッセ―をお読み頂きありがとうございます。
今日も新聞記事より抜粋してお伝えします。
「命つなぐ覚悟『役』にも変化」
俳優  木村多江

数年前から、近くの農園に家族で出かけ、野菜や果物を収穫させてもらっています。
初めて手にしたキュウリの深い緑色。
水洗いもせず、ズボンで少し拭っただけで、ガリっとかじったときの歯ごたえと香り。
こんな豊かな食べ物があるんだ、と気づきました。
きっかけは、近くの公園で子どもと一緒に土を触ったことでした。
自分も幼いころ、庭のビワの木に登り、夕焼けを眺めていた。
我を忘れて夢中になった幸せな記憶を思い出したんです。
しかも、虫が好きで。
アオムシを手のひらにのせ、指でなでていました。
あんなにきれいな緑色って、ない。
命あるものの色は、本当に美しいです。
大人になった自分が忘れていたものでした。
ただ生きることに、一生懸命で。
道ばたの小さな花でも、身近に豊かさはある。
なのに、いっぱいいっぱいで、気づかなくなっていました。
生きていく覚悟を決めることと、小さな自然にも
何かを感じられる心のゆとりは、つながっていると思います。
自然って、自分を立ち止まらせ、元に戻してくれる存在なんでしょうね。
芸能界は華やかなイメージかも知れませんが、
健康でいるのが難しい不規則な日常です。
私は20代のころまで、生きることにもがいていました。
睡眠も削り、自分を痛めつけるようなところがありました。
人と話すのが苦手で、心にたまったものをはき出せる場所が欲しかった。
それが舞台でした。
心の持ちようは、その人のふるまいにも表れるのでしょう。
若いころは、死んでいく役が多かったです。
木になって死ぬという役では、顔に特殊メイクをして木になりました。
愛する人が森で命を絶ったという設定でした。
自分も自然と一体になることで、その人とも一緒になれる「喜び」を
意識して演じたのを覚えています。
ただ、「不幸な役なら木村多江」といわれるのは、うれしいことでした。
自分にしかできないお芝居をしたかったので。
生き残れる役が増えたのは、30代になってからです。
自然の存在に気づく大きな体験の一つは、病室の窓から見た世界でした。
出産のときに半年以上入院しました。
木と空だけが外の世界の全てでしたが、毎日朝が来て、
雲は形を変えていくんだ、と。
そしてもう一つは、桜の時期に49歳で逝った父の死でした。
21歳だった私は、美しいはずの桜の花を見るのも苦しかったけど、
花の後で命をつなぐ新緑は、素直に目に入ってきた。
父から渡されたバトン、父よりも長く走って私がつながないと。
しばらくたって、ようやくそんな覚悟ができたから、
役としても生き残れるようになったのかなと思います。
 
『達人の会福岡支部・満月笑顔の会のお知らせ』
期日  5月14日(日曜日)
時間  13時~17時
場所  福岡中央市民センター
会費  1000円(達人の会の会員500円)